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ファスト&スロー(上/下) あなたの意思はどのように決まるか? ダニエル・カーネマン

著者のダニエル・カーネマンは、行動経済学での草分け的存在です。カーネマンはノーベル経済学賞を受賞しましたしプロスペクト理論でも有名で、本書はベストセラーにもなりました。カーネマンの本は初見でしたが、カーネマンはこの本までにもいくつか出版しているようで、それらはいずれも専門家向けで素人には読みづらいようです。当『ファスト&スロー』は、一般の人でも読めて理解しやすいように書かれた、カーネマンの長年の研究をまとめたものです。

 親友ともいうべき共同研究者のエイモス・トヴェルスキーは残念ながら亡くなってしまったためにノーベル賞を取りそこねましたが、この本はトヴェルスキーにも捧げられて書かれました。トヴェルスキーと著者との研究の様子や、その他の著名な経済学者・心理学者とのやり取りなども書かれています。共に研究した親しい学者はもちろん、敵対する説を主張する学者とのやり取りも、かなり配慮しながらも時には辛辣に扱っていたりします。そういう意味では、今では誰もが知っている有名な学問となった行動経済学という分野での、ある種の歴史をたどれる、カーネマンの自伝的な本とも言えるように思います。

この本は上下巻でそこそこ長く、しかもカーネマンの長年の研究をずらっと並べて書いているので、内容は濃いです。特に心理学・行動経済学の書なので、わかったようなわかっていないような、読んだ後でもハッキリつかめないような気分になります。

この本を通しての特徴は、脳をシステム1とシステム2に分けて考えていることです。本能的で直感的に判断を下す脳(システム1)と、理性的で意識的にコントロール可能な脳(システム2)とに分け、それらがせめぎ合うことによって、人間がなぜ失敗を犯すのか、バイアスやヒューリスティックス、錯誤を説明します。

もちろん脳を物理的に明快に2つに分けられるわけではないことは文中に断っていますが、カーネマンはシステム1とシステム2をあたかも2つの別人格のように言葉で表現することで、一般の読者にも理解がしやすくなるように工夫しています。

この本は人間の「意志決定」に関する本なので、あらゆる人が読んで為になる本であると思います。人の上に立つ政治家や実業家、組織に属する管理職などはもちろん、一個人としても、脳の中での心の動きや、様々な人間の避けようのない錯誤や誤解が、どういう仕組みでおかしな結果をもたらすのかを解き明かします。行動経済学は広告などでもある種の悪用をされているのは承知のこととして、『ファスト&スロー』はそれらに騙されないように自分の身を守ることにも、そして今まで自分でも気付かずに騙されていたことに気付くきっかけになることにも、きっと役立つはずです。

 

人間は錯誤を避けられない「ヒューマン」ということを再認識できる

カーネマンは、あまり考えずに""メンタル・ショットガン""的に(当たれば八卦のように、過剰な情報処理を無意識に自動的にやたらめったら行ってしまう)システム1を、理性的で意識があってコントロール可能な、自分自身ともいうべきシステム2が、時には抑えこんだり、確認してシステム1の直観を肯定して従ったり、またはシステム1の錯誤を認知もできずにそのまま行動に現れてしまったりする仕組みを説明します。しかし、理性的なシステム2でさえ、多くのエネルギーが必要な分出来うる限り怠けようとする「怠け者」であることや、意志決定がシステム1をきっかけにしていることから来るためにシステム2にはそもそも限界があることなどを解き明かします。カーネマンとは立場を異にし、人間の能力に楽観的な立場の心理学者などの解釈もあってその記述も文中にありますが、割とカーネマンは人間の能力に対しては悲観的で厳しい立場にあるようです。それだけ、より科学的で信用しやすく説得力があります。

上巻では、システム1とシステム2に分けて説明をするということから始まり、個人的な脳としてのヒューリスティックスやバイアスを説明しますが、下巻ではより社会的な立場ごとの言及に移っていきます。様々な分野のエキスパート、つまり専門家は、私達と同じくバイアスを持つ人間ですが、彼らはどれだけ信用できるものなのか、それとも多数の大衆の直観が正しいのか、チェスのプロが強くなれてその道のエキスパートになれたのはどうしてなのか、などをあくまで科学的な観点で説明します。

スタートアップの実業家たちの多くがどういうバイアスの持ち主で、どれだけリスクが多いのかを、より科学的に数字を挙げて(読者を都合よく持ち上げたりはせずに)説明します。アメリカのスタートアップ企業が5年まで生き残る確率は35%に過ぎないことや、新規実業家が楽天的で多くの必要な情報を無視していることなど、多くの一般書籍とは違い、厳しいです。

世の中には本を売りたいがために多くの口だけでうまいことを言うだけの本が凡百とあるわけですが、それらに騙されないようにこのカーネマンの本も読んで自身の錯誤による大きな失敗を未然に防ぐことに活かすべきだろう、と読んでいてつくづく思いました。特にお金が全てともいうべき資本主義であれば、なおさら読んでおくべき本なのではないかと思います。この本を読んでおけば、特に楽天的バイアスの傾向の強い発明家や新規実業家の、よくありがちな失敗の数々を防ぐことができるかも知れません。

従来の経済学では、人間は理性的で常に合理的な判断を下すという理想的なイメージで語られていて、この人物像を本書では「エコン」と呼んでいます。カーネマンらの行動経済学者によって、この「エコン」像は突き崩されました。

決して合理的でもなく、常に錯誤を避けることができない人間、「ヒューマン」で経済が語られることになりました。この本を通して読んでいると、自分を含めて人間はみんな錯誤を避けられない「ヒューマン」なんだということがよくわかり、だからこそ出来得るだけ客観的な事実を元に公平に情報を集め、より数学的に判断を下すべきであることが、理解できます。

行動経済学の基礎を理解している人におすすめ

この本は、ベストセラーだからと言って行動経済学を勉強したい方が最初に手に取るような本ではないと思います。まずは新書などで行動経済学の本などを勉強したあとで、より詳しく知りたいという方が読んだ方が理解はしやすいでしょう。本書ではカーネマンが行動経済学の草創期での研究を続けていく上での様々なエピソードも語られているので、「行動経済学の本」としてはある意味冗長で、単に行動経済学を知りたい人にはこの本は返って理解が難しいと思います。

NHKで毎週『オイコノミア』という番組が放送されていて経済学の面白い講義を学ぶことができます。この番組をきっかけに行動経済学を知ったという方も多いのではないでしょうか。番組内でも何度も出てきた、「アンカリング」や「ハロー効果」、「プロスペクト理論」に「保有効果」など、「どこかで聞いたことがあるけどどういう意味だったっけ?」という言葉の多くがこの本で解説されているので、テレビを見ながらこの本で思い返してみる、というのも良いかも知れません。何しろ、カーネマン本人の書いたものですので、読み手としても信用度が違うでしょう。

2017年のノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーについても、この本の文中にチラッと出てきました。もちろんこの本の出版時にはセイラーが受賞するなんてことはわかっていませんでした。この本には多数のアメリカ(やイスラエル、ちなみにカーネマンはユダヤ系)の心理学、行動経済学で活躍してきた人たちが出てきますので、行動経済学の歴史をたどりながら行動経済学の理論を知りたい、という人には、結構な資料にもなると思います。

d.hatena.ne.jp